制作者への愛がこもった劇評が誤解を受けるとき

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先日書いた劇評についての考えの続きです。

目次

■薙野信喜さんが、ブログで、この件を取り上げて下さいました

福岡にお住まいの薙野信喜さんが、この件についての記事を書いて下さいました。→「清水宏氏は、間違っている-のんちゃんのつれずれ」

清水宏さんを名指しで、意見の撤回を求めている、ズバッと突き刺さる意見で、一読に値します

薙野さんは、ご自身の体験として、劇評の掲載の中止を求められた事例をいくつか挙げてらっしゃいます。

ただ、今回の事例とは少し違うものであったと思います

■ヨコウチ会長の愛に溢れた劇評

 ヨコウチ会長は、ブログ記事を非公開にしましたが、グーグルで検索すればキャッシュでまだ読むことが出来ます(清水さん、グーグルにも削除依頼かけないと完全に消えませんよ)

 あらためてその記事を読んでいて、僕は愛に溢れていると感じました

 劇場は教室や会議室ではありません。そこで展開され芝居は、瞬間的には観客の頭の中に記録されるのみです

 ヨコウチ会長の劇評は、そういう環境で書いたとは思えないくらいに、清水宏さんの舞台の内容を再現し、 彼女の心の動きを記載しています
正直、読んでる立場から見て、どこまてが、舞台上で語られたことでどこからが、ヨコウチ会長の脳内活動の賜物かわからないほどです

 それこそ彼女の溢れる愛の結晶です

 そしてその驚異的再現力が、今回の清水宏さんの申し出につながったのだと思います

■褒める劇評と厳しい劇評では拡散力が異なる

 直近、僕は池袋演劇祭の審査員をつとめさせていただき、普段見ることのあまりない劇団を見させてもらう機会がありました。
その劇評ブログのアクセス数を見ると面白いくらいにアクセス数が、違います。

 褒めた劇評のアクセス数は伸び、厳しく書いた劇評はアクセス数は伸び悩みます。
単に面白い舞台であれば、他の人の劇評を読みたいと思い、検索で辿りついてくれたりもあると思います。

 しかし、それよりも強い理由は、関係者やファンがその劇評をツイッター等のSNSで、拡散していることによるものです。

 すなわち、褒める劇評、愛ある劇評は拡散力が強く、影響力が強いのです

 だからこそヨコウチ会長のブログは清水宏さんの目に止まり、今回のような顛末になったのではないでしょうか。(あくまで想像ですが)

■今回は悲しい行き違いだったと思いたい

 これほど愛に溢れた劇評が、その愛の対象である清水さんから認められなかったのは、悲しい行き違いだったと思います。

 願わくば、こんな事例がこれ以上続かないことを願います

■閑話休題。

だからと言って僕は、今後愛の溢れた劇評しか書かないなんてつもりはこれっぽっちもありません。

つまんない舞台に出会ったら渾身の力を込めて厳しい劇評を書く所存です(笑)

それも、その舞台を作った人への礼儀だと思うからです

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