著者プロフィール

(演劇系とプログラミング系を中心に)

目次

属性

氏名:清角 克由
生年:1968年(昭和43年)
出身:広島県広島市
性別:男性
身分:会社員

観劇の傾向

もともと学生時代に演劇部に所属していたため、芝居を見る時につい作る立場の事を想像して見てしまいます

原体験が、夢の遊眠社/唐組だったこともあり、大劇場の舞台よりも小劇場やアングラテイストな舞台を好む傾向にあります

役者より、脚本や演出、時に音響効果のようなマニアックなものに関心が行ってしまうのも特徴かもしれません

年間観劇量は最大50本くらいまでいったことはありますが、現在は20本いくか行かないか

観劇歴は、30年近くになります

演劇歴

演劇歴

中学時代まで

 幼稚園の時に、お遊戯会で白雪姫をやることになり王子様役に抜擢されるも、おたふく風邪で3日休んだ隙に、王子様三人、白雪姫三人と7人の小人という、シュールな群衆劇に変わってしまうという悲劇に見舞われる

 この時に、大事な時に身体を壊すとロクなことがないという教訓を得るも、その後の人生に生かされず

 中学時代は、背が高いというだけでバスケ部に入るもボールに追いつけず、放送室に篭って、昼時にみんなのためと称して好きな音楽を流すだけの放送部で昼休みと放課後のほとんどを過ごす

 中島みゆきのオールナイトニッポンにはまり、中島みゆきばかりを流して校内の不興を買ったのもこの頃

高校時代

 高校でもそのままの勢いで、放送部(その学校では放送班)に入る。中学時代とは打って変わって真面目な部活で、必死に某国営放送や有名声優学校が主催する大会の全国大会を目指してラジオドラマを作る

 自分の脚本、主演で全国大会に進出。初上京を果たすも、怖くて地下鉄に乗れず(広島には今も地下鉄がない)、山手線をぐるぐる回っただけで帰郷する

 たった三日しかいなかったのに、言葉尻に「さぁ」をつけてしゃべるようになり、母に呆れられる

 同時期に、放送部の顧問が学生時代に演劇をしていたため後輩がいるという東京の劇団が、招待されて全校生徒で観劇。ガラスの動物園だったが、何も面白いと感じず(人生初観劇!)

 その少し後に、おしゃれで人気者だった同級生に何故か誘われて、地元のアマチュア劇団(十八米四十糎)の舞台を見る。シェイクスピアの「真夏の夜の夢」で、これで演劇の面白さに目覚める。(今でもシェイクスピアは好きです

大学時代(福岡時代①)

 高校の部活の先輩方にアナウンス研究会に入るように勧められるも、演劇の魅力が忘れられず、演劇部に入部。

 一年生の夏に初舞台。二年の始めに初演出。演出した作品は竹内銃一郎さんの「Z」

 卒業まで、演劇メインの生活を送る

 ただ、ほとんど舞台には立たせてもらえず、制作というな裏方仕事で予算管理とスケジュール管理を必死でやる。今思えばプロジェクト管理をしていたような気がする。

 住んでいた場所が、福岡だったため、福岡の地元劇団か、福岡公演に来た東京の有名劇団のみをみる

 唐組福岡公演は、建込みその他をお手伝いさせていただき、唐十郎さん、大久保鷹さんを始め劇団の方々と夜な夜な酒を飲む。ビールに氷入れて飲む人(唐十郎さん)を初めて見た。

 夢の遊眠社の福岡公演で、「野獣来臨」を見る。野田秀樹の台詞が耳から離れず、しばらく演劇部の練習場で、野田秀樹ごっこをして遊ぶ。

 3年生になったころに、そういえば自分は放送部出身だったと突然思い出し、アナウンススクールに通い始める。講師に

「声が暗い」

と言われてめげる。(結局、放送局は受けなかった…)

就職上京(東京時代①)

大学時代は、演劇に完全に染まっていたが、バブル期だったこともあり、大して苦労せずに就職先を決めて上京。芝居はやるものではなく、見るものと決める。

 東京でいっぱい芝居を見るぞと張り切って色々見に行った。唐組、プロジェクトナビ、維新派、新宿梁山泊など、学生時代に脚本でしか読んだことのなかった作家さんの作品に出会えて興奮する 。

 喜んでいるのもつかの間、福岡への転勤命令を受けて再び福岡へ

福岡時代②

福岡時代 再び、福岡の劇団を中心に見る生活に戻る。

K2T3,山崎銀之丞率いる空想天馬、ギンギラ太陽sの前身?などを見る。

大学の演劇部を覗きに行って、先輩風を吹かせてたら、後輩に乗せられて、劇団翠平船の立ち上げを手伝わされる 。見るものと決めていたのに、またやる羽目に。(やった作品は、野田地図の「キル」。自分の世代は野田秀樹さんの脚本なんて恐れおおくてできないと思っていたが、後輩はなんなくやったのをみて、密かに歳を取ったと落ち込む。)

この頃、パソコン通信にハマり始める。nifty-serveの演劇フォーラム(FSTAGE)の皆様と付き合うようになり、徐々に観劇の深みにもハマる。

東京時代②

六年後に再び転勤命令にて東京へ

パソコン通信の演劇フォーラムのオフ会で本格的に観劇に目覚め、観劇のヘビーローテーションを始める 。

最大年間50本も見る。演劇感想文リンクの参加者の皆さんからすると全然少ないorz 。今に至る。

この時期から、ようやく見ていた舞台を記録に残し始める。1997年が東京時代②の始まりで、このブログの最初の記事もその観劇記録。この記事↓。

また、2003年にFSAGEで知り合った時かけさんが作っておられた「演劇感想文リンク」を引き継いだ。当初はFSTAGEで知り合った方を中心にリンク先を増やしていき(かわひさん、手塚優さん、nazcaさん、JOYさん等)、徐々に知らない人にもお願いをしていくことで今に至る。

 


プログラミング歴/PC歴

プログラミング歴/PC歴

中学時代にパソコンブームが来る。世の中的にはNECが主流だったらしいが、僕の周りはシャープのMZシリーズが大流行

少し出遅れたものの両親との交渉の末、当時最先端だったパソコンテレビX1を購入しました

ベーマガやOh!X1などを見ながら、ゲームのプログラムとか一生懸命打ち込み遊ぶという生活が続く。(当時は、CDはもちろん、フロッピーもない時代で、ソースコードを打ち込まないと雑誌のゲームができなかった)
打ち込みを速くしたい一身で近所の方に英文タイプの教則本をいただき独学で、ブラインドタッチを覚える

basicから始まったプログラミング

最初はベーシックで、ゲームを作っていたりしました。画面の動きが遅くろくなものは出来ませんでした。それでも自分で作ったものが思い通りに動くのは感動的でした

ある程度慣れてくると、家電量販店においてあるパソコンの前で勝手にベーシックを起動してゲームのプログラムを打ち込み、ゲームを走らせて遊ぶという随分家電量販店の店員さんには迷惑をかけることもしてました。、(僕が遊び終わった後そのままプログラムは知らせといたので、近所の子供がそのパソコンに群がるという状況がお)こったりして)

当時はパソコンゲームの黎明期で、個人が、パソコンゲームを作ったら、それが売れるかもしれないみたいな夢がありました。

さすがにベーシックで作っていても限界があるので、他の言語に手を出したのですが、雑誌の特徴か、マイナーな言語が取り上げられることが多く、フォース、プロローグ、パスカルなどをいじつてました(当然、ゲームでないプログラむを作ることが多かった)

そのうち飽きて、パソコンテレビX1は、ただのテレビになりました

LISP→COBOL→VisualBasic→Ruby

大学時代は、学校の授業でプログラミングを採ったら何故かLISPを使う羽目に。いまだに何故LISPだったのかはわかりません(学部は法学部)

就職は、SEとして。で、最初はCOBOLの研修を受けて、一年半くらいCOBOLで、プログラミングしてました。

その後別のプロジェクトでは、マイクロソフトのvisualbasicを覚えました

ちょうどexcelがはやりだした頃で、同じ言語体系でマクロが作れるというので随分たくさんのマクロを書きました。
今でもちょくちょく書いてます

この頃から、言語が何でもまあまあ勉強すれば、何か自分のやりたいことはできるだろうという意味のない自信を持つに至りました
ホームページを作るようになった頃は当然すべて手書きで作成していましたが、演劇感想文リンクを引き受けてから、手書きでのホームページ更新に限界を感じる
その頃に、データをXMLで管理し、WHSでXSLを利用したホームページ更新作成方法に行き着き、しばらくそれでホームページ更新を行う

が、簡単にできる代わりに複雑な事が出来す、試行錯誤の末に、現在はWordpressでページを管理し、必要なデータをRubyで開発するというスタイルに落ち着きました。