劇評は何のために書かれるのか?

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劇評というとちょっと大仰で、僕の中では「感想文」といった感じの軽いものも含めて、以下では劇評と呼んでいます。(そもそも僕の演劇感想文リンクというサイトの名称もそういう意図で名付けられています)
なので、以下の文中の「劇評」と言う言葉は、いわゆる演劇評論家の方が書くプロのものだけでなく、僕を含めた素人が思うがままに書いた「感想文」も含んでいると思ってください。
■ヨコウチ会長のブログで、過去の劇評21本を非公開された旨が告知されました。

  ヨコウチ会長の記事はこちら→「記事21本削除のお知らせ 【清水宏様ご要望により】」
清水宏さんからの申し出に対応したものだそうです。(スタッフではなく、清水宏さん本人からということです。)

再演/DVD化の多い彼の作品について、劇場に来た方とDVDを購入した方にだけ、彼の作品をわかってほしいというのが意図だそうです。

■劇評は、誰のために書くのか?

 世の中にナントカ評という類のものがたくさんあります。書評、映画評、漫画評…でも、そういった中で、劇評は特別な意味があると思っています。
なぜならば、劇評を見た人が、その演劇を見ることができるのは本当に限られた期間だからです。

 書評や映画評であれば、読んだ人はその原作品に触れることができます。一方で、多くの舞台は、再演されることはありません。DVD化されるのもごく限られた公演ですし、再演されるにしてもキャストや演出が変わったりして、けして同じものではありません

 だからこそ、劇評は、他の評論とは異なり、読む人は、その人の感想だけではなく、劇の内容等にも触れたいと思い読むのだと思います。

 もちろん、公演中に見に行く舞台の下調べで劇評を読む人もいるわけで、そういう人にとって「ネタバレ」は、避けて欲しいという思いはあるかと思います。

 しかし、永続的に公開されているネット上の劇評は、そのような「旬」な時以外に読まれることが圧倒的に多いのです。

■劇評は、いつ読まれるのか?

 僕は「演劇感想文リンク」なんてサイトをやっているおかげで、自分のサイトの劇評がどのようなタイミングで読まれるのか、よくわかります。
毎週毎週、アクセスランキングを見ているのですが、当然、話題作の上演中はその作品についての劇評ページのアクセス数が跳ね上がります。

 でも、その影でコンスタントにアクセスがあるのは、そんな話題作でもなく、ましてや上演中でもない過去の作品のページです。
きっと、見そこねた舞台の評判が気になったり、最近気になった役者さんの過去の舞台の様子を少しでも感じ取ろうとサイトにアクセスしてくれているのだと思います。

■ネット上の劇評は、演劇史である。

 僕は、知り合いに演劇をやっている人が何人かいます。そういう人からのお誘いには、できるだけ出かけていくようにしています。
そして、Blogに劇評を残します。

 そんな知り合いの一人にあるとき言われてしまったのが「お前にみせると芝居が歴史に残る」という台詞でした。
僕のBlog一本で、演劇史になるなんてことはありません。でも、たくさんの人が見た舞台の感想の一つになることで、その舞台/公演がたしかに存在したことが残るのも(少し大仰では有りますが)歴史なのだと思います。

■演劇の公演の歴史を作るのは、制作者だけではない。

  少し思い上がっているのかもしれませんが、僕は、演劇の公演とはその公演の制作者だけの力で出来ているのではなく、観客によっても形作られていると信じています。
特に公演期間が終わった後、その公演が上演されたことを記憶に留めるのは観客であり、その観客の記憶に残ることこそ、演劇公演を行った歴史の証左なのだと思います。

  ネットが出現するまでは、劇評とは一部のプロの劇評作家によるものがほとんどであり、そこに取り上げられる公演も限られたものでした。

  だから、多くの公演は、観客の記憶の中だけに留められていました。

  しかし、今、観客はその記憶をツイッターやFacebookを始めとしたSNSやBlogで他の観客(まだ見ぬ未来の観客も含め)と共有することができる時代に入りました。

  その存在を否定することが、演劇制作者から出てきたことに、重い悲しみを感じています。

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