邪馬台国の場所に迫る古代史本(その1)

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邪馬台国にロマンを感じる世代です

学生時代にそれほど、日本史が好きでも得意だったわけでもありません。受験も、日本史、世界史は避けて受験した口です。が、邪馬台国の場所の問題については、社会人になってから興味を持つようになりました。
未だに、考古学的な決定的な遺跡が出ていない中、文献だけを頼りに場所を特定するという試みがとてもロマンを感じます。
考古学的な決定的な証拠がなく、文献が当てにならないので、色々推理が広がります
この記事では、最近そういう興味の赴くままに読んだ本を紹介しながら、個人的な感想を述べます。僕なりの結論を出す意図はありません。

邪馬台国の謎とは

たくさんあるわけですが、僕としては以下の謎が代表的なものと思います。その謎に、どのように各々の本が答えているかを比較していきましょう。

方向が違うのは何故か?

距離が違うのは何故か?

邪馬台国はどこか?

卑弥呼は誰か?

方向が違うのはなぜか?

邪馬台国の比定地が簡単に確定しないのは、距離と方向について、両方をそのまま信じると邪馬台国の場所がとんでもない場所になってしまうからです。そのまま読むと、諸説ありますが、台湾とか沖縄近海になってしまいます。

邪馬台国畿内説の方々は、故に南は東の間違いであるといいます。

しかし、昔のChinaの人は、そこまでバカなのでしょうか?広大の大陸に広がった国を治め、戦乱の中で数々の兵法/戦略を実行し大軍を動かす戦争を行ってきた国の人が、方角に関してそんないい加減な知識しか持っていないとは俄には信じられません。

邪馬台国九州説の方にしても、明らかに方角の違う比定地を選んでいる部分があり、畿内説の人とどっちもどっちな気がします。
具体的には、佐賀県松浦市に比定されている末羅国、福岡県糸島市に比定されている伊都国、同じく福岡市那の津近辺に比定されている奴国あたりの関係が変です。

以下は、wikipediaによる、末廬国→糸島国→奴国のルートです。(日本語書き下し文のみ)

(一大国(壱岐島に比定)から)また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。

 東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世、王が居た。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。

 東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。

末廬国から、東南へ進んで伊都国、更に東南に進んで奴国とあります。しかし、地図でみるとこの関係は以下のようになります。

いや、誰がどう見ても東南ではなく「東北」方向への道です。高校時代あたりまでは、学校でならった魏志倭人伝の記載と上記の比定地をあまり違和感なく受け入れていたのですが、大学時代になって上記の各々の場所に実際に足を運んでみて、この方向の違和感を感じるようになりました。

この疑問に、初めて答えてくれたのが、以下の本でした。

この本では、上記の疑問に非常に明快に答えてくれます。伊都国、奴国は、糸島、福岡ではないということです。 この本の中では、佐賀平野周辺に伊都国、奴国を設定しています。末廬国を唐津と比定し、現唐津街道を東南に移動するルート上に、伊都国、奴国を比定しています。

以下は、上記の本の中で、伊都国、奴国を示した図です。それまで読んでいた通説本に無い、説得力を感じます。 というわけで、この本に出会ってからとてもすんなり邪馬台国への道を理解してスッキリした気分でいました。著者は、科学者ということで、いわゆる考古学者や歴史学者がとらわれがちな、地名の一致等にほとんどこだわらない論理展開をしています。

上記の本では、方角を正確にたどり、グーグルアースを使って、きちんと人が歩ける/船で行くという事を想定しながら邪馬台国の比定地までたどり着いています。無理をあまり感じない素晴らしい本です。

科学的な視点を入れているという点で、他の類本にない面白い本だと感じました。

でも、なんで距離が長く記載されているのか

上記の中田さんの本では、九州説を取っています。九州説の弱点は、実は距離をどうとるかということが曖昧なところです。 一般的には、短里説と呼ばれる当時Chinaで利用されていた1里=400M程度の里ではなく、その5分の1程度の1里=70〜80M換算で記載されていることになっています。 色々説明があるのですが、イマイチ納得感がありません。秦の始皇帝によって統一された一里は、400Mだったようです。

里 wikipedia

この当たり、疑問に答えてくれる本に最近出会いました。

 

 

この2冊を読んで、世界史の視点を邪馬台国の比定には必要なのだと気付かされました。記事長くなりすぎたので、今日は一旦このへんで記事を収めたいと思います。

上記2冊を読んだ結果、(自分なりに納得した)距離が合わない問題については、また続きで書くこととします。

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