珍しく肉声で話す美加里=ブランチは、ムーバーとスピーカーが異なる他のキャストに囲まれて、さながらモノクロ映画の中の天然色のキャストのように際立ち、それが3時間20分に及ぶ舞台の緊張感を弛緩させることなく持続させた。最後のブランチ←→ステラの交代がイマイチ理解できなかったが、総体として素晴らしい舞台であった。
劇団 | ク・ナウカ | ||||
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題名 | 欲望という名の電車 | ||||
公演期間 | 2002/10/31~2002/11/10 | ||||
作 | テネシー・ウィリアムズ | 演出 | 宮城聰 | ||
出演 | ブランチ:美加理(言動一致) ミッチ:吉植荘一朗/阿部一徳 スタンリー:吉植荘一郎/大高浩一 ステラ:江口麻琴/本多麻紀 パブロ:大内米冶 スティーヴ:加藤幸夫 黒人女・メキシコ女:諏訪智美 ユーニス:鈴木陽代 医師:吉植荘一朗/大内米冶、 看護婦:吉植荘一朗/加藤幸夫 集金人:吉植荘一朗/大内米冶 |
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劇場 | ザ・スズナリ(下北沢) | ||||
観劇日 | 2002年11月2日(ソワレ) |
<<ストーリー>>
妹のうちに何故か転がり込んできたブランチ。上流階級の暮らしを維持しつづけたらしい彼女は、ことあるごとに妹ステラの境遇を嘆き悲しむ。その言葉がいちいち癇に障る妹の夫スタンリーが、仕入れてきたブランチの最近の境遇は恐るべきものだった。
<<感想>>
北朝鮮拉致被害者の報道が、毎日のようにマスコミを騒がしている。それでいて、けして報道されないことがある。(勿論、報道されるべきではないと僕自身おもっているのだが…)24年間違う価値観の中に暮らした「被害者」と「その家族」が、どのようにその価値観をお互いにぶつけ合い、共有するにいたったのか….。そのような部分はけして報道されず、我々も窺い知ることができない。
しかし、この公演を見たとき、それはこのような感じだったのではないかと感じたシーンがあった。
ブランチが、妹ステラの部屋の狭さに嘆き、夫の暴力を恐れ、ことあるごとに「幸せ」であると口にするステラを、真っ向から否定し、その街から逃げ出そうと誘いかける(のちにそれがまったく心にもないことであったことが判明するが)シーンである。
二人の価値観、いやそれ以上に、舞台上に登場しているブランチ以外の全てのキャラクタとブランチの価値観が違っている。そしてブランチはその中で、もがき苦しんでいるように見える。演出的にも、ブランチ役の美加里のみが、言動一致の役をこなし、他が全てムーバーとスピーカーを違う役者が演じることにより、あたかもモノクロ映画の中に一人天然色のキャストが混じっているかのような違和感と存在感をブランチが示し、いっそうにその対立関係が明確になる。
上演時間3時間20分と聞いたとき、最後までその緊張感が保てるのか不安だったが、この演出の妙と美加里のいつもながらのピアノ線の如き繊細で強靭な演技力が、緊張の糸をキリキリと締め上げ、けして弛緩することを許さない。
後半になるにつれ、少しづつ明らかになるブランチの内面や過去は、(僕自身このストーリーをまったく知らなかったこともあり)、ショッキングに感じられたし、ステラとブランチが、かけ離れていた価値観をすこしづつ寄せていく様も印象的であった。
最後にスタンリーによるブランチのレイプにより、ブランチの価値観、妄想的な自己意識は全て破壊される。どころか、彼女は恐らくはその自己そのものを破壊され、医者に連れ去られてしまう。この辺の経緯は、ブランチに視点を預けてきた観客にも充分なっとくのいくものであった。(レイプという暴力的な行為と過去の暴露という精神への攻撃が彼女を「壊した」のだとすればわかりやすい)
一方で、ステラが、何故最後に感情を持ったのか、理解するのは難しい。自ら肉声で話し、帽子をかぶり、大きなスーツケースを持ち、あたかも舞台当初のブランチを髣髴とさせる姿にステラが変わったことに合点の行く説明が、舞台上語られなかったように思う。
そのため、3時間20分にわたる舞台に付き合ったあげく、最後の数分に何か大きな裏切りにあったような気がしたのが唯一の不満といえば不満であった。
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