[旅行記]超個人的な山形史についての豆知識(山形旅行記3)

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観光旅行に行く際に、事前にその地域の歴史に興味を持ち勉強した後で訪れればもっと有意義な旅になるのだと思います。が、大抵はそれは逆になってしまい現地の博物館や資料館を訪れ、地元の人と話したりすることで興味を持ちます
というわけで、今回の山形旅行で感じたり、見たりしたものに少しネットの力を借りて掘り下げた個人的にまとめた山形史を書いてみたいと思います

目次

縄文の女神[縄文時代]

日本の縄文時代の土偶といえば、遮光器土偶といわれる土偶を僕は思い出します
子供の頃は、宇宙人の姿のようなその姿に魅了されたものでしたが、山形県最上郡舟形町では割と最近とても素晴らしい土偶が発掘されています(1992年に発掘)

全高45cmに及ぶサイズは、土偶の中でも異例です。それよりも目を引くのはデフォルメされたシンプルな美しさです
残念ながら横から写真を取っていないのですが、女神という名前の通り、女性であることがはっきりわかるスタイルの良いの像で、国宝指定も頷ける像です

この土偶が発見された西の原遺跡は、縄文中期の遺跡です
縄文時代の遺跡は、東北にとても多いイメージですが、豊かな自然の中で縄文時代が活躍した時代、山形にもたくさんの人が住んでいたようです

縄文の女神のレプリカは、本物の縄文の女神が保管されている山形市の博物館入り口にもありました。こちらは普通の人の身長くらいの高さに拡大されています

最上義光って誰?[戦国時代]

冒頭のようなことを書いておいて、いきなり山形県民から石を投げられそうな発言ですが、山形市についたときにあちこちにその名前が現れる最上義光という名前に本当に見覚えがありませんでした

多分、広島県民である僕の前で、「毛利元就って誰?」って聞かれたら、一度ぶん殴りたい気持ちになると思うのですが、上記発言はきっと山形県民に同じ気持ちにさせるようなきがします(そう思って怖くて、山形の人と話すときにこの疑問を口にすることはできませんでした

最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。南羽州に勢力を広げ、縁戚である伊達輝宗・政宗と争う。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、慶長出羽合戦にて上杉家の直江兼続を退け、57万石の版図を築く(『徳川実紀』)

山形藩の初代藩主で、山形を中心にかなり広い範囲を戦国時代に版図を広げた武将。伊達政宗や直江兼続との争いもあったようです

「独眼竜政宗」という往年の大河ドラマは子供の頃に見た記憶ありますが、どうやらそれにも出てきた様子。原田芳雄さんがやった役といわれるとうっすらと記憶が蘇ってきます


上記の像とともに山形市の霞城公園の一角には、ちゃんと顕彰碑が立っており、事績が綴られています

山寺の奥の院付近にも、お墓がありその大事にされている様子を伺うことができます

徳川家の重臣、酒井家の入部[江戸時代]

上記の最上家は、戦国時代を過ぎ、改易等により山形地域全域を支配することはなくなります
その後は、山形はいくつかの藩に分割されて、統治されることになります

今回の旅行で、新庄からドライブで庄内地域に入った途端、以下のHPで語られている酒井家入部400年というフレーズがやたら目に入るようになります

来年の大河(「どうする家康」)では、大森南朋さんが演じる酒井忠次の子孫が庄内藩の藩主として庄内にはいったのだそうです(知りませんでした😊)

藩が分かれているせいか、山形市を旅行していたときと、鶴岡の旅行をしているときにはほとんど共通の歴史を歩んでいるという感じを受けませんでした

山形市では、すごく最上義光を推していたのですが、なぜか鶴岡ではそのようなイメージはなく…代わりに酒井家の歴史に触れる建物に多数出会いました
その中でも、致道館という元藩校の建物は、酒井家の歴史を知る上でとても参考になる建物でした

学風(荻生徂徠に端を発する徂徠学)に関しての展示や、江戸から幕末にかけての歴史を知る様々な展示がありました

新徴組と庄内藩

興味深かったのは、庄内藩出身の幕末の志士清河八郎の展示に関連した新徴組の展示でした

説明書きによれば、新選組と同じく清河八郎が組織した浪士組発祥の新徴組は、京都ではなく江戸を守るための組織だったそうです
その後は庄内藩の預かりになるなど庄内藩とは関わりが深い組だったようです。

和洋の融合した私立病院「済生館」[明治時代]

明治時代に、山形県は紆余曲折のすえ、現在の山形県の形になります(それ以前には、鶴岡県や酒田県、米沢県、新庄県など今の山形の主要都市がそのまま県として存在した時代があったようです)

その初の県令であった三島通庸(この方の名前も山形市ではあちこちで見た)の命により私立病院として建設されたのが済生館です(のちに市営に変更)
建物が、擬洋風建築の傑作と呼ばれ、本館の建て替えの際に、移築されたものが山形市の霞城公園にあります

擬洋風建築とは、洋風の建築を指向した日本の大工さん、建築家が立てたというもので、モダンな反面何か懐かしい部分が多数あります

日本唯一の黒いマリア像[明治時代]

鶴岡市の鶴岡カトリック教会天主堂は、明治36年に完成した古い教会です

この教会そのものも、その歴史の古さから重要文化財に指定されています(一方で、現役の教会として日曜日にはミサも行われているようです)


こちらまで現役かはわかりませんが、パイプオルガンも設置されています

そしてなんといっても、ぜひ見ておきたいのが黒いマリア像です

日本国内では唯一の黒いマリア像です。マリア様って白人というイメージですが、鶴岡カトリック教会のホームページによれば、旧約聖書にはマリア様は浅黒い顔であるという表現があるようです
たしかに、その時代のユダヤ人は浅黒い肌だったと聞いたような気がします(テルマエ・ロマエで、日本人がローマ人をやっていたのも現地では意外に受け入れられたのも、彫りの深いアジア人って意外に当時の中東の人の姿と似ていると聞いた気がします)

山形にミニ韓国が!外国人の妻を受け入れた村[昭和時代]

山形の最上地域にある戸沢村には、今、変わった道の駅があります

なぜ、こんなところに韓国が?と不思議に思いますが、結構しっかり韓国っぽい建物で統一されています

調べてみると、東北大学の研究報告のページにあたりました(農村部における外国人配偶者と地域社会)

~中略~一方、農村が多い東北地方においては、1970年代以降に深刻化した過疎化・少子高齢化・嫁不足による後継者不足解決のため、1980年代後半以降、山形県最上地区で行政が主導して外国人配偶者(女性)の受け入れを推進し、全国的にも注目を集めたという興味深い事例が存在する。この例のように、東北地方における在住外国人は「外国人配偶者」の占める割合が高く、彼/彼女らと如何に共生していくのかという点に大きな特徴がある。
~後略~

こちらの報告を読むと、1988~89に積極的に外国人の女性を農村のお嫁さんとして受け入れ、その後共生を図る活動をしてきたことが読み取れます
この道の駅も、そうした活動の一貫だったようです

お店の中もかなり韓国製品が占めています

写真は取りませんでした、K-POPのアイドルグッズや化粧品なども扱ってました。まさにリトル・コリア!

経緯を知るまでは、不思議な場所でしたが、敬意を知るとこんな山形の一地域にも歴史があると実感できて面白かったです

韓国料理が美味しそうだったのですが、朝の時間帯だったこともあり断念orz

ビビンバのメニューの名前が特徴的で面白い🤣

以上 山形旅行で訪れた場所を見て調べて超個人的な山形の歴史の豆知識でした

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