[劇評]野田地図「パンドラの鐘」@シアターコクーン

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劇団 シアターコクーンプロデュース
題名 パンドラの鐘
公演期間 1999/11/26〜1999/12/23
野田秀樹 演出 蜷川幸雄
出演 ヒメ女:大竹しのぶ,ミズヲ:勝村政信,イマイチ:生瀬勝久,ハンニバル/男:松重豊,ヒバイヤ:壌晴彦,タマキ:宮本裕子,オズ:高橋洋,コフィン:井出らっきょ,ハンマー:大富士,リース:大石継太,ピンカートン夫人:森村泰昌,狂王・カナクギ教授:沢竜二
劇場 シアターコクーン(渋谷)
観劇日 1999年11月21日

最初は、野田秀樹演出版と蜷川幸雄演出版とを別々にレビューを書くことも考えたのですが、レビューを考える過程でどうしても、両方をセットで考えてしまう自分がいるので、あきらめてごっちゃでレビューを書きます。(ちなみに野田版は公演二日目に最前列の真ん中という凄い席でみているので、その時の感想も交ざってしまう。)
以下レビュー

全体の印象を先に書いてしまうと、重厚長大な蜷川版に対して、軽佻浮薄な野田版という感じが本当に良く出ていました。後に細かい違いや感想は書きますが、清角は、結果的には蜷川版の方が好みであることに気づきました。

演出家野田秀樹は、作家野田秀樹に対して照れてしまっているのではないでしょうか?全体を見て清角が感じたのはそういう感想でした。蜷川さんがいうように脚本に忠実にやればこうなるという舞台をまさに蜷川さんが見せてくれた気がします。

今回の脚本は、野田さんにしては、非常にわかりやすいほどの政治色の強い脚本です。(舞台の時代が昭和であることを考えると)先王が紙筒を目にあてて狂っているといったり、タマキの最後の科白で「日本には王がいる」といったり、クーデター失敗の時のヒイバアの科白やハンニバルの科白が226事件そのままだったり、国家に対してまずいことを書いた教授が特高に連れ去られたり、だからこそ、野田さんは徹底的にやることを避けたのではないか?そんなうがった見方をしてしまうのです。そこら辺、さすがアングラ出身の蜷川さんは臆することなくめちゃくちゃストレートに舞台に載せてきています。

装置は、その違いをもっともはっきりさせているかもしれません、重量感のある瓦礫が舞台上にしきつめられた蜷川版は、舞台そのものが、激しく主張してきます。途中で、火が舞台上に灯るのですが、それが、ラストシーン近くでミズオの口から語られる原爆投下後の地獄絵図に繋がっていきます。広島生まれで広島育ちの僕にとって、そのシーンの意味はいやになるほど分かりやすく、野田版のそれよりよほど、野田秀樹の脚本が描こうとしていた、シーンを現していた気がします。

僕にとってこの芝居のクライマックスは、実はまさにこのミズオが語る原爆投下後のシーンなのですが、この辺の捉え方が、蜷川版の方に心をより捉えられました。勝村さん演じるミズオの語る光景と舞台、照明が一体になり、まさに地獄のようなそのシーンが眼前に醸し出されます。ミズオがミズオであり、人を埋める理由。二度とそのような事が起きてほしくないと願う狂おしいまでの願望。それが非常にストレートに伝わってきました。だからこそ、ヒメ女が、語る自分を埋めて太陽が爆発するのを防ぐというシーンにおいて、ヒメ女のミズオへの愛情がはっきり伝わってきたと思います。

野田版の場合、どうしてもこのシーンが軽く感じてしまうのです。堤さんの演技が、地獄を感じさせない。他の処は凄くいいのに、このシーンの堤さんの演技は少し軽く、脚本が当然醸し出していたと思われる重苦しいまでのミズオの願望が伝わってこなかった。(また、照明効果等もちょっと引いていたような気がしました。)もしかしたら、演出家としての野田さんに脚本通りストレートにやることへの照れがあったのではないか、と清角は考えてしまいました。

衣装も、シーン毎に適切な衣装を変える蜷川版と常に同じ衣装を着まわしつつ、上にかける衣装でイメージを作りつづける野田版に比べてこの脚本にあっている気がしました。

紙を使った野田さんの舞台の演出は、単独で見ると凄く斬新ですし、抽象化された舞台から伝わるメッセージは非常に強烈な部分もたくさんあります。でも、蜷川さんの方がより万人にわかりやすく、野田さんの脚本のメッセージを伝えているような気がしました。

 ちょっと付け加えと疑問点

・衣装は、結構両バージョン違っていたのに、ヒメ女の衣装だけは両方赤が基調になっていました。これは、脚本指定なのかな?ミズオが最初に見た景色と同じ赤なのでしょうか?だとすると、蜷川版のミズオの登場シーンの照明は間違っている事になってしまう。蜷川版では、ミズオの登場は夕日の赤、野田版は、原爆あるいは血の赤の照明でミズオは登場します。それとも、偶然、両方の演出家が赤を選択したのかな(しかも似たような赤なんだけど)
・イマイチのピンカートン夫人への接し方が実は両バージョンでまるで違う、片方は恋しているようでもう片方は、馬鹿にした感じ。同じ科白をしゃべっていても演技だけでこんなになっちゃうんだという見本みたい。

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